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もう一つの真珠湾攻撃。オーストラリアとシンガポール、そして日本の歴史

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オセアニアの大国・オーストラリアとマレー半島南端の小国・シンガポール。この2つの国は地理的にも近く、最近では2019年にデジタル協定が結ばれるなど経済面においてもますますの密接ぶりがうかがえます。

さて、両国の歴史を語る上で外せない国が2つあります。果たして両国が歩んできた歴史で浮かび上がるものとは?少しずつ紐解いていきましょう。

もともと宗主国が同じ。欧州の太平洋覇権争いの舞台ともなっていた複雑な歴史

1778年に当時の宗主国によって植民地として発足したオーストラリアは、のちに金鉱ラッシュなどを経て、1901年に連邦政府が誕生しました。国としての歴史はまだ100年余りなのです。

対してシンガポールも中世の大航海時代、ヨーロッパの国々の覇権争いの舞台となった地域ですが、こちらも国としては建国してまだ50年ほど。現在では世界的に有名な両国ですが、先進国の中でみてもまだまだ非常に若い国家なのです。

ヨーロッパの国々は、東南アジアにある豊富な香辛料を求めて、そしてその先にある中国大陸、さらには極東の日本との交易も視野に入れていたとされています。ポルトガルを皮切りに、スペインやオランダ、フランスなどが次々と船を向かわせるなか、一歩出遅れた国がありました。まさにその国は、オーストラリアとシンガポールを手中におさめた「イギリス」でした。

イギリスの植民地となったものの、その後は別々の異なる運命が待っていました。

植民地であっても戦略活用されたシンガポール

さて、イギリスよりも先に東南アジアへ進出していたポルトガルやスペイン、オランダなどといった国々は、インドネシアやマレーシアなど東南アジアの様々な国を植民地化していきます。

そんな中、1819年、イギリス東インド会社の社員であった一人の男性がマレー半島先端の小さな漁村に目をつけました。そう、その人物こそが「トーマス・スタンフォード・ラッフルズ」です。

彼はもともとマレーシアのペナン領事館などに赴いていましたが、他の欧州諸国の息がまだ掛かっていなかったシンガポール(当時はシンガプーラと呼びました)にイギリスの商館を建設することに決めました。

ラッフルズが上陸する前のシンガポールは、王政が途絶えた後、寂れた漁村としてジャングルに埋れていたため、東南アジアの利権をめぐって対立していた他の欧州諸国と争うことなくスムーズに商館建設に着手できたといいます。

非常に勤勉家で堅実的だったラッフルズ、その先見の明が、その後のシンガポール発展に寄与したことは言うまでもありません。侵略的な植民地化ではなく、あくまで地元民と調和を取りながら政策を進めたといいます。

例えばシンガポールの港では関税の掛らない自由貿易を認めたこと、また、近隣アジア諸国から様々な移民(出稼ぎ労働者)を受け入れたことなどが挙げられます。後の太平洋戦争の際には、シンガポールに当時世界最強の要塞と言われた海軍基地なども作りました。

これらの経緯からも、現代のシンガポールの人々がイギリスに対するネガティブなイメージをあまり持っておらず、寧ろイギリスのチャールズ皇太子(Prince of Wales)の訪問時などには、お年を召したご婦人たちが黄色い声援を挙げて出迎えている様子を目にすることすら珍しくないのです。

そして戦後、国家として独立後、初代首相となった故リー・クワン・ユー元首相は公用語を英語とする大英断を敢行。イギリスから完全に独り立ちしたにもかかわらず、戦後の目覚ましい復興と発展があったのは、公用語を英語とすることで、世界の国々とビジネスの世界で渡り歩くための緻密な戦略によるものであったと言えるのではないでしょうか。

オーストラリアの広大な国土を切り拓いた人々はまさかの⁈◯◯だった

一方オーストラリアはというと、同じ植民地でもシンガポールとは異なる歴史を歩みました。18世紀後半からイギリスによる植民地化が始まると、アボリジニなどの先住民を除くヨーロッパから入植した人々は、ずばり「植民地の管理者」または「犯罪者」が大きく占めていたそうです。

近代国家としての広大なオーストラリアを開拓するために流刑先として連れてこられた人が多く、1788年の植民地開始後からしばらくの間は犯罪者の方が圧倒的に多かったと豪教育省の記録にも残っているとのこと。

彼らを起点としてオーストラリアは発展していったため、現在でも多くの国民には、自分たちの先祖を遡れば、犯罪者に繋がる先祖を持つ人が多いということが、共通認識として残っているようです。

とは言え、オーストラリアでも有名な〝ネッド・ケリー〟のように国民的ヒーローとも扱われる犯罪者もいたようで、自分の先祖が犯罪者だったことに悲嘆にくれるのではなく、「自分の先祖はこんな犯罪で植民地送りにされたのか」と感慨に耽るなど、オージーの快活で懐深い性格を表している何ともあっぱれな印象を受けます。

自分の先祖が犯罪者か否か検索サイトも存在するということですが、さて、あなたがもしもオージーであるとしたら、その検索サイトをのぞいてみたいと思いますか…?

日本人が知らない両国に刻んだ歴史の爪痕

“封印”された知られざる歴史 – もう一つの〝真珠湾攻撃〟

日米開戦の口火を切ったハワイの真珠湾への攻撃は、あまりにも有名ですが、そのわずか10週間後に起きた日本軍によるオーストラリア北部ダーウィンへの大規模な空襲についてはご存じでしょうか。

1942年2月19日の午前9時58分、ダーウィン上空に轟音が鳴り響き、ティモール海洋上の航空母艦から飛び立った188機の零式艦上戦闘機などが、おびただしい数の爆弾を投下しました。

その結果、ダーウィン港に停泊していた8隻の船が瞬く間に炎上し沈没。湾岸の石油タンクからは黒煙が上がり、当時、マレー半島などに向かう連合国軍の重要な軍事拠点だったダーウィンの軍関連施設はもとより、郵便局や民家なども爆撃を受けました。地上では、兵士たちが懸命に対空砲などで応戦したものの、蒸し暑い亜熱帯気候の中、弾薬も十分ではなく、迅速かつ正確に標的を攻撃してくる「ゼロ戦」の群れに、なす術はありませんでした。

真珠湾攻撃を凌ぐ爆弾量を投入したその日の2回の空襲により、民間人を含む少なくとも243人が死亡、約400人が負傷しました。その後日本軍は、1942年2月から翌1943年11月まで、少なくとも97回以上にも登る攻撃をしました。ダーウィンのみならず、西オーストラリア州のブルームやクイーンズランド州のタウンズビルなどにも空襲を行っています。

ヨーロッパ人の入植以来、史上初めてにして最大の外国勢力によるこの本土空襲について、オーストラリア国民でさえも詳しく知る人は少ないそうです。今でこそ2月19日を「国民の休日」にすべきだとの声も上がるほどですが、慰霊碑が設置されているダーウィン市内の公園で大規模な式典が行われるようになったのは、2012年の70周年式典のころからだといいます。空襲後、住民だけでなく兵士の多くがダーウィンから逃げ出してしまい、あえて政府も 国民に事実を伝えなかったことから、まさに「恥ずべき歴史」として“封印”されてしまったのです。

〝昭南島〟と呼ばれたシンガポール

第二次世界大戦中、シンガポールは昭南島と呼ばれた時代がありました。

昭南島とは、昭和の昭に南の島と書き、〝南方の明かり〟を意味する戦時中日本軍によって付けられた名前です。

第二次世界大戦へと時代が移り変わる中、日中戦争を足がかりにした日本は、東アジアを長い年月植民地化し、非人道的な搾取を続けてきた欧米諸国を追い出し、統一していきましょうという〝大東亜共栄圏〟という大義名分のもと、豊富な天然資源を求め東南アジアに目をつけました。

1941年12月8日と言いますと、一般的には真珠湾攻撃を記憶する方も多いかと思いますが、実は日本がハワイの真珠湾を攻撃するその約1時間ほど前に、シンガポールへの攻撃を開始していました。日本側の陸軍の精鋭部隊はマレー半島の東北部のコタバル沖に到着し、この日の一時三五分に舟艇に乗って発進、イギリス軍との戦闘の中を二時一五分上陸を開始しました。真珠湾攻撃に先立つこと一時間余り、このマレー半島上陸作戦によってアジア太平洋戦争の口火が切られたと言っても過言ではないかもしれません。東南アジアの軍事経済のかなめがシンガポールであり、まずここを占領する必要がありました。しかし、シンガポールには強力なイギリス軍がおり、難攻不落の要塞といわれていたので、日本軍はマレー半島の背後から攻撃することにしたのです。

1942年2月14日の日本軍と連合軍による会談〝YesNo会談〟により連合軍側が降伏し、翌2月15日、シンガポールはここから〝昭南島〟と名前を変え日本軍事制下に置かれる暗くて長い3年半が始まります。日本軍による占領が始まった昭南島時代のシンガポールでは、日本軍の軍国主義政策のもと、様々なことが抑圧されていきました。例えば、日本語を強制的に覚えさせることや、日本の皇居がある方角に向かって毎日お辞儀をさせられたりと様々なことが行われました。

そして、この時代日本軍が行った軍事圧力の中に、中国語で〝Shook ching〟と呼ばれたものがあります。それはまさに「粛清(大検証)」を指すのですが、日本軍は、抗日分子を選別するため、中華系の18歳から50歳までのすべての男性に対する検証を行いました。抗日だと判断された人はトラックの荷台に乗せられ、海岸まで連れて行かれた後二度と戻ることはなかったそうです。その犠牲者ですが、日本軍の発表によると5000~6000、しかし非公式の発表によればその数は2万~3万とも言われています。

その後日本政府による賠償金の支払いにより、日本軍事下で亡くなられたすべての犠牲者に対する慰霊のための〝血債の塔〟がシンガポールに建てられました。大検証で亡くなられ、身元の分からない方々の遺骨がこちらの塔の下に埋葬されています。そして1945年8月15日、原爆が投下され日本の敗戦と同時に、シンガポールでの日本軍による占領も終わりを迎えました。

その際、当時上空がからばら撒かれた、英語・中国語・タミール語・マレー語の4ヶ国語で書かれたビラには、連合国軍の勝利と日本軍の降伏が伝えられ現在もシンガポール国立博物館に展示されています。

実は似ている?オーストラリアとシンガポールに共通することとは

これまでお伝えしたように、イギリスによる植民地化や日本による侵攻など、似て似つかわしくない両国の歩みに触れてきました。しかし実はひとつ、両国に共通する重要なポイントもあるのでそちらをご紹介して終了といたしましょう。

それは、どちらの国も〝移民が多く、多国籍である〟ということです。

英語・中国語(マンダリン)・マレー語・タミル語からなる4つの公用語を持つシンガポールと、遠くはヨーロッパやロシア、中国やモンゴルなどからの移民・帰化した人々が混在するオーストラリア。まさに世界中のあらゆる民族が集う様相は、ちょっとした「ミクロコスモス(小宇宙)」とたとえられるかもしれません。